Jugoslavija Note

何故あの頃、いきなり『Jugoslavija Note』を作ったのか今でも記憶が定かでない。
ノートを作ったことさえすっかり忘れていた。
英語ではYugoslaviaとなる。
多分、当時敬愛していたブルーザー・ブロディ(Bruiser Brody)の両親の出身国が
ユーゴスラビアだったことがその理由だと思う。
そのブルーザー・ブロディ(Bruiser Brody)は昭和終焉の年にプエルトルコで刺殺された。
そのことを知ったのは日本のテキサスの絶望工場に向う途中、風にまぎれて飛んできた
スポーツ新聞の切れっ端の記事からである。
当時一番哀しかった出来事である。
プロレスへの傾倒度はかなり下がっていたが、やはり体の芯にはプロレス熱は帯びたままだった。
県立体育館でチェーンを振り回すブロディやアンドレ・ザ・ジャイアントに追い掛け回されたときは
本当に怖かった。
ユーゴスラビア・ノートを作ったのは多分平成に年号が変ってすぐの頃だと思う。
勿論ユーゴに行くつもりで当時は作成した筈だが、その後の解体され、結局ユーゴという
国自体に行くことは出来なくなった。

当時は、他に韓半島の残り2エリア:
 忠清北道忠清南道
 全羅北道(全州):全羅南道(光州)
に行く計画を立てたりしていた。

また中国では第3次旅遊まで計画を実行し、後は東北部と西域行きを計画していた。
  (当然全域を歩くことは不可能なので自分なりに地域:都市を限定しての計画である)
東北部ではそこからそこから白頭山に行く予定だった。
また同時にモンゴル(名古屋空港からのチャーター機)行きの計画や
ヴェトナム行きの計画を立てていた。
モンゴルとヴェトナム行きは実際に旅行代理店と色々と見積や条件交渉を続けていた。
 モンゴル行きは人数が集まらなかったのと、ヴェトナム行きは費用がかかりすぎたので
なかなか計画を実行に移すことが出来なかった。

その後、私生活が変るとともに生活の糧を得るため第一次出稼ぎに出たので
韓半島が一番遠い国になってしまった。